お正月から部活したい生徒ってどんだけいるのかな
記事ではお正月から部活があることが悲しいとツイッターでつぶやく生徒がいることから入り、
部活の顧問を持つ先生と保護者の間の
顧問の先生の負担が大きすぎるかどうかのアンケートの比較をしている。
簡単にいうと先生側は部活動の負担が大きいと答えており
保護者のほうではそこまで負担が大きいと答えていないという結果になっている。
もっと簡単にいうと、
センセー的には部活すっごい大変。
保護者的には部活をみることなんてそんな大変じゃないでしょって考えてるということ。
で、記事で
は最後に
調査から見えてくるのは、教員と保護者の間の深い溝である。その溝を埋めることが、「悲しい」とつぶやく子どもの現在に切り込む手がかりとなるのではないだろうか。
とむすんでいる。
いろいろ考えてみたけど、結局何を目指して書かれたのかわらなかった。
子どもが悲しいってつぶやかないような部活のあり方を作っていかないといけないってことかな?
教員と保護者の間の認識のずれが問題ってことかな?
正月は休んだほうがいいってこと?やるんなら保護者・先生ともに納得してやるべきだってこと?
まず保護者と先生の認識のずれはなくならないような気がする。
サービスを提供する側と受ける側ではこのずれは当然あるはずだ。
教育ってなると保護者も先生もなんか神聖なものって感覚が出てきてしまって、特別扱いしてしまう。けれど、他の社会のものと比べるとこの感覚は自然。
例えばマッサージ店にいけばサービスを受けるほうはもっと長い時間、安くやってほしい。どんなにサービスを提供する側が頑張っても、こっちはお金を払っているんだからもっとがんばってほしいと考える。 この商売でのずれに関しては問題なくて、教育に関しては問題あるってなんか変な気がする。
あと自分が講師として何年間かやってきた経験から、やっぱり難しいと感じるのは
サービスの依頼者とサービスの受け手が違っていることだ。
もちろんサービスの依頼者は 保護者 で
サービスの受け手は 生 徒 です。
依頼者のほうは教育が大切だ。厳しくやってもらったほうが生徒のためになると考えて学校に生徒を預けるわけだけど、そのサービスを受ける生徒のほうは別に私そんなこと頼んでないし、私にかまうなよ、うるさいな。と考えている。
だからなかなかこちらとしてはサービスしにくい。
結局はセンセーたちは将来の生徒に対してサービスしてるってのが模範解答なのだろうと思うが、やっぱり今目の前にいる保護者や生徒から批判されるのは悲しい。
んー これも教育を神聖なものと考えすぎなのか?
ちゃんとサービスの依頼者である保護者の通りやっていくのが正しいのかな?
なんか話が行ったり来たりしたけど
正月部活やろうってセンセーはミサワ的な感じで、
おれつれーわ 正月から生徒のこと考えて仕事してるおれ つれーわ
って気持ちがあるのではないかと
そして
それを社会も利用していると職員室の隅っこのほうからセンセーは思ってます。