ルールは誰のためのものなのか、誰を縛るものなのか、そして誰が決めるのか
ごっちゃになりがちだけど、区別しておかないといけないこととしてよく思うのが
ルールによって規制される人とルールによって守られる人とは違う。
ということだ。
ルールというのは、ほとんどの人が普通に暮らす場合においてあまり意識されない。それは何故かと言うと、普通に暮らしいている分にはルールにふれるような時がないからだ。
多くのルールが極端な場合を規制する。
だから、普通の人にとってなぜ存在するのかわからないような一見不合理なルールが存在することになる。
ここのコメントで小学校の先生がコメントしている。
中学年くらいから、シャーペンが教室に登場しだします
。すると、必ず授業中に分解する子が出てきます。そして パーツをなくした、壊れて芯が出ない、という事態が起き ます。次にシャーペンを失くした、児童間で「とった×と られた」「壊した×壊された」が出てきます。TDL(例 )で買ってきた、友達に「あげた、お金は?、私にはくれ ない、飾り部分が壊れた・・・」などと言い始めます。等々際限なく続きます。コレにいち いち教師が対応するはずもなく、またすべきではないので 、「禁止」ということになります。
「とった×とられた」「壊した×壊された」などおこらないことも多いです。
が、やっぱり起こるときは起こる。
普通の多くの人にとっては、普通の鉛筆を使っている時と何も変わらず、便利な道具ですが、ごく一部の人の一部の行動が起こってしまった時のためにこの場合のルールができています。
なにか極端なことがおこったとき多くの人が不利益を受けるとき、その極端なことを規制するためにルールが有ります。ルールがあることによって多くの普通に暮らしている人を守られます。
そして難しいのはルールの範囲を決めるのは、多くの普通の人ではなく、極端な行動をする人たちだ。
お花見の名所でカメラの3脚が禁止になるのは3脚を堂々と道の真中に置いて、通行の人のじゃまになる人がいるから。 このようなルールのギリギリを攻めてくる人たちを規制するためにルールのせんびきがきまってくる。
いつだってルールの境界を決めるのは一部のギリギリを攻めてくる人たちだ。
ルールによって守られるのはまんじゅうの中身であるあんこの部分であり、規制されるのはまんじゅうの輪郭であるおもちの部分だ。
ほんと馬鹿馬鹿しいけど、民主主義や法治国家をすすめるにはしょうがないことなのかもしれない。